interview with Hard-Ons

重要な芸術として音楽を愛し敬意を払って欲しい

INTERVIEWED:S.Bowden (このインタビューは翻訳、校正をしただけです。だから内容面白い?!)

80年代以降のオーストラリアのアンダーグラウンドシーンにわずかな関心を持っている人ならば、HARD-ONSを聴いたり、レコードショップでRayの描いたフライヤーを目にしたり彼等のレコードを1枚持っているか、ライブを見たことがあるだろう。80年代中期から現在までHARD-ONSはエネルギッシュなポップパンクにおいては信頼の出来る(けれども予測は出来ない)先駆者である。しかし、彼等をシンプルにポップパンクとカテゴライズしてしまうのは間違いであろう。HARD-ONSは世界中で愛され尊敬されている。彼等のファンを公言している人物を少しだけ挙げるとジョーイ・ラモーン、イギー・ポップ、ヘンリー・ロリンズ、ジェロ・ビアフラ、キャプテン・センシブル、デイブ・グール等である。2009年彼等は結成25周年を祝し新作「BEST OF HARD-ONS」を引っさげワールドツアーを行い、4月には18年ぶりとなる待望の来日ツアーも控えている。メールを介しBlackie(以下B/ギターボーカル)とRay Ahn(以下R/ベースボーカル)にインタビューを行った。

▲君たち自身でHARD-ONSのサウンドについて説明するとどんな感じかな?

Raimond Ann(以下:R.A.)「HARD-ONSはスラッシュメタルからバブルガムポップまでを1枚のアルバムで、やっているからすごくユニークなサウンドと思うよ。タフなポップ音楽って言えるけど、時には怒り狂ったハードコアパンクとも言えるね。僕らはこれまでに『モーターヘッド・ミーツ・ビーチボーイズ』、『アバ・ミーツ・ダムド』なんて言われてきたよ。メルボルンの雑誌では『モーターヘッド版アーチーズ』って言われたな。僕らがやってきた事は殆どロウでラフなものだから、今のポップパンクやメタルなんかとはかけ離れているね。」

BLACKIE(以下:B.)「僕は、パンクとメタルをぶち込んだヘビーパワーポップってところかな。あぁぁぁぁぁぁ、糞マズいコーヒーを口に含んだみたいな音!」

▲HARD-ONSが長く続けられている理由は何だと思う?

R.A.「僕らが長く続けられている理由:

– 1993年に休止して1998年に再始動をした。僕らはいい休息が取れた。あの当時“オルタナロック”とか“インディー”っていわれていたバンド達がメジャーレーベルと契約して売れていった。僕らが解散した当時は、NIRVANAの成功以来、契約していたレーベルからメインストリームでの成功を期待されプレッシャーもあった。僕らは解散したから、誰もがっかりさせなかったし、恐ろしいオルタナロックからは、ほど遠い全く別もののバンドを結成していたし。だからHARD-ONSは、自分達を“インディー”って呼んでいる平凡なバンドが大きくなっていくことができたオーストラリア音楽シーンの時期を逃しているんだ。燃え尽きる事なく、僕らは単純に休息をして、すっきりして再び戻れて来たってわけ。

– HARD-ONSは“スカパンク”とか“メタルコア”って言われるサブカルチャートレンドにも属した事がない。つまり僕らは何か流行っているシーンに属した事がないから、一時的に何かの一部にもなることもなかった。僕らは退屈な郊外で育ちそこで音楽知識を得ているから、トレンドに敏感な都心的見解もなく、自分達自身の音楽を持っていた。その時々の流行に影響を受けるチャンスもなかったしね。長続きしているのはHARD-ONSはこうあるべきって僕らが決めつけていないからだと思うよ。」

– バンド名をHARD-ONSと名乗っている時点で、メインストリームシーンの一部になりたいなんて欲望もないことをアナウンスしているようなものだね。メジャーラジオ局で僕らの曲が流れる事もなかった。バンドとしてのプレッシャーも受けることはなかった。レコードを売ってライブをする。それは高校生で結成したバンドにとってはボーナスみたいなものだよ。もちろんプレッシャーを感じたから、1993年に一度解散したけど。だけど振り返ってみれば、当時僕らは音楽をやるための興味ががなくなったのだろう。」

– HARD-ONSのメンバーは1976年に小学校で出会った。だからお互い良く分かり合っていて、他のバンドでよくあるメンバー間の衝突もなかった。メンバーそれぞれがどんな人間かよくわかっているからね。自我の問題なんて全くないんだよ。」

B.「それは簡単だね、愛だよ。陳腐に聞こえるかもしれないけど、僕らは自分達のやっている事を愛している。音楽なしの人生は大した人生じゃないし。僕は個人的に音楽によって祝福されていると思う。」

▲オーストラリアでのHARD-ONSのライブにおいて、観客にどんな変化がある?

R.A.「あんまり変化はないと思うよ。90年代初期に僕らが契約していたWATERFLONTレコーズがFESTIVALレコーズと流通契約をして僕らの事を知らなかった多くの人に知られることになった。だけどこれを除いて、僕らのお客さんは変わってないな。驚くほどに僕らのお客さんは音楽的にすっごい詳しいからね。」

B.「25年も経って色んな事が変化したよ。たくさんの浮き沈みや状況の変化も見てきた。だけど基本的には僕らの音楽があらゆる年齢層や性別の人に受け入れられているようにオーディエンスも同じようだと思う。一つ共通している事は、誰もがそこでライブをやっていることを知っていればライブに行きたいんだよ。だからさ、ライブ会場は美しいエネルギーが充満しているんだ。」

▲パンクロックに興味を持った最初のきっかけって?METAL経由だったのかな?

R.A.「メタルシーンにたくさんの友達がいたけど、僕らが最初に夢中になったのはハードロックだった。最初に観たのは1976年にAC/DCで、1980年にKISSを観た。でも僕らは70年代後期にパンクに出会ってからは、LED ZEPPELINやKISSとは違い、少なくともパンクロックは僕らでもやれるに違いないと確信して夢中になった。DAMNEDやSAINTS、BIRTHDAY PARTY、RADIO BIRDMAN、ADVERTS、X-RAY SPEXなんかを聴いていて、自分達でも演奏していた。LED ZEPPELINを演るレベルには到達してなかった。彼等は人間じゃなくて神だったよ。1978年高校のときにパンクレコードを集めている小さいグループがあって、みんなでお互いに教えあっていた。郊外に住んでる僕らにとっては、メインストリームのハードロックとパンクロックを同時に好きになるのはセンスのないことではなかった。バンドを観に都市に行くようになった時に、パンク以外の音楽を憎む“リアルパンクス”に出会った。僕ら全員、その考えは心が狭いなって思ったよ。何年間後にDAMNEDのキャンテン・センシブルに会って、彼のお気に入りのバンドがMOVEだってことを教えてくれた。UK SUBSのニッキー・ギャレットのお気に入りのバンドはSOFT MACHINE、BUZZCOCKSのピート・シェリーのお気に入りのバンドはCAN。僕らはパンク音楽とそのとっつきやすさは好きだったけど、他の音楽を好きになることもやめなかった。」

B.「うーん、僕らが若かった頃はみんなLED ZEPPELIN、BLACK SABBATH、AC/DC等を聴いていた。そこでいつもまだ何か足りないなって感じていた。パンクに出会った時にはそれまで足りなかったものが明らかにあった。それはすごかったよ!」

▲初期の頃からHARD-ONSは世界中のツアーを始めたね。それはバンドの知名度を多いにあげることになったと思う。日本の若いバンドに海外へのツアーへの挑戦をすすめますか?

R.A.「イエス。お金以外に、失うものはないよ。お金は後で稼ぎ返せばいいんだ!音楽的にも人生経験の視野においても、海外をツアーして廻ることはたくさん得ることがあるよ。」

B.「全部異なることだし、そして全部同じこと。忠告を聞いたり忠告を聞かなかったり。僕がバンドに言えることは重要な芸術として音楽を愛して敬意を払って欲しい。残りは細かいことでしかないよ。」

▲オリジナルドラマーのKeishがバンドを離れたとき、多くの人がバンドは終わったと思った。けれどもHARD-ONSはPeter Kostic(FRONT END LOADER/REGURGITATOR)を迎え入れて走り始めた。君たちにとってあの時期はどうだった?続けていくモチベーションは何だったのかな?

R.A.「Keishは最初の解散後ドラムを叩いていなかった。1998年にバンドを再結成した時に、ツアーに出て毎晩ドラムを叩きながら歌うことは彼にとって困難になっていた。Blackieと僕はHARD-ONS活動停止中に、別プロジェクトをやっていたから復帰することは簡単だったけどね。2002年初頭にヨーロッパツアーが決まっていた。2001年の9月にKeishが脱退したいって伝えてきて、Peteをバンドに迎え入れて数ヶ月しか時間がなかった。Peteは素晴らしいドラマーかつ素晴らしい友人だったから彼がバンドに溶け込むのは簡単だった。全曲知っていたしね。けれども、彼はKeishとは違うドラマーだから、曲にきっちりとあわせる必要があった。バンドのメンバー全員一生懸命になって新しいドラマーが問題ないように頑張ったよ。もちろんバンドをやり続けるためのモチベーションは、僕らには新曲があったしバンドを続けたかった。僕らは解散する前の僕らの様に力強いロウなパワーポップバンドでいたかった。Keishのドラムは下手になっていたけど、僕らの曲は以前よりも良くなっていた。だからBlackieがボーカルをやって(1984年頃Keishがボーカルをとるまでは彼がボーカリストだったんだ)、ドラマーをチェンジする必要があった様に思えた。僕らはすでにバンドのコンセプトを持っていた。一曲の中でバブルガムからスラッシュメタルまで一緒にやれる力強いパワーポップバンドだってね。」

B.「気に入ってた新曲もいっぱいあったから、辞めたいと思っても辞められなかったよ! KeishもHARD-ONSを続けていくことについて気にしなかった。Peteは違うドラマーだし、僕らもやろうよって。彼は力もあるし、長い間僕らのファンでいてくれたから完璧にフィットしてくれている。」

▲これまでのHARD-ONSのキャリアの中でハイライトになっていることって何?

R.A.「それは絶対に海外をツアーし続けて、僕らを好きでいてくれる人たちに会うことが出来ていることだよ。僕らはシドニーの郊外、これといってとりえのない労働者階級出身のくつろいだオーストラリア人だ。だからフィンランドやスペイン、セルビアのような場所からやってきたファンに会ったりすると、本当にヘコヘコしちゃう。現に今だってアルゼンチンの人が僕らのことを知っていることだって信じられないよ。」

B.「もうありすぎるよ。キャプテン・センシブル、ヘンリー・ロリンズ、ロブ・ヤンガー、エド・クーパー、ジェリー・Aのような人に会って一緒に作品を制作したり。RAMONESとツアーしたり、イギー・ポップやデニス・トンプソンとつるんだり、ジョーイ・ラモーンが僕らのバンドを好きだっていってくれたんだよ!ハイライトは絶え間なく続いているよ。僕らは色々な意味で本当にラッキーなバンドだよ(お金は除いてね。ハハハ!)でも僕にとっての一番のハイライトは、いまだに僕らがHARD-ONSとして活動していて、それを最高に楽しめていることだよ。それが一番のことだね。」

▲前回の来日から18年が経ちます。過去のツアーはどうだった?

R.A.「前回のツアーは信じられないくらい楽しかった。1991年で、当時日本で人気のあったイギリスのSNUFFとのジョイントツアーだった。空港やホテル、電車の駅にファンがプレゼントや手紙を持って来てくれたのは、僕らの歴史の中であの時だけだったよ。もちろん、それはうれしかったんだけど、僕らはオーストラリアの小さなバンドだから、奇妙に感じた。そんな経験それまでにしたこともなかったし。ライブは最高だった。すごい良く演れたと思う。僕らはいつも最高のライブバンドだと思うけど。」

B.「信じられなかった!最高に素晴らしかったよ。あれ以来、日本に行くことができなかった自分達に腹が立っているんだ。今回はこれから何度も行くための第一回目になるよ。」

▲RAYに質問。キミのアートワークはHARD-ONSと同義だね。キミの作品がすぐに出版されることはないのかな?

R.A.「すごい質問だね。丁度、この6年間で僕が手がけた作品集を今年まとめ始めたところだよ。HARD-ONSのだけでなく、殆どは主に他のバンドのためにやった作品をね。シドニーアンダーグラウンドシーンのライブのプロモーターをやっているTENZENMENという人が発売してくれる。彼がリリースの手助けをしてくれているんだ。多くのHARD-ONSのリスナーが関心を示してくれているのでそれに答える形でね。最初はスウェーデンの人がやってくれるはずだった、その次はマドリッドの人が。でも、僕が忙しかったのも原因だけど、それは実現しなかった。今回はシドニーの人とやっているから、恐らく実現すると思う。」

▲ハード・オンズのライブにまだ足を運んだことのない人たちのために、ハード・オンズのライブに期待出来ることって何かな?

R.A.「僕が言うとしたらハード・オンズのライブはうるさくて面白い出来事。ライブ会場は興奮とユーモアの半々に包まれてるよ。僕らはオールドスタイルの演奏をやる。それは、最近の多くのバンドが上手く制御するために正確かつソフトに演奏するのと対照的に、最高に騒がしくて歪みまくってロウなサウンドでやる。基本的には僕らは音を目一杯あげてラウドに演奏する。3人で演奏しているとは思えないようにやるし、僕らは典型的な3ピースバンドではない。僕とギタリストのBlackieとの間にはベースとリードギター、リズムギターで全ての音をカバーできるって確信がある。キミが想像するように、ライブは音源よりもさらに激しく熱いサウンドだ、でもメロディーは強く残るようにやっている。」

B.「3人の男が“ノリまくってる”!僕らが、そうしたいと思ってるときや、その場のムードがいいときなんだけどね。それは嘘なんだけど。僕らは裸になるよ。いつもそうだから驚かないでね。今回、日本では君たちのためにたくさん昔の曲もやるし新曲もやるよ!」

▲2009年残りのプランは何かな?

R.A.「1984年はパブで僕らが初めて人前で演奏をした年だった。1982年にバンドを結成したけれども、最初の2年間の活動はスクールパーティーの類いだったし。25周年を記念して、ヨーロッパと日本同様にオーストラリアでも大きなツアーをやるんだ。新たにレコーディングもしてニューアルバムも出すつもり。また、2005年のシドニーでのライブ音源もリリースする予定で、これはハード・オンズのオリジナルドラマーのKeishをリードシンガーに迎えて4ピースのやつなんだ。それに加え、カルフォルニアのコメディアンのニール・ハンバーガーとのコラボレーションを12″ビニールでリリースするよ。たくさんのことが起こるよ。」

B.「僕らの25歳の誕生日だからプランはたくさんあるよ!僕にとって一番重要なことは、新作のレコーディングをすることだ。新作は長い期間かけて練っているから、完璧なものに仕上げたいんだ!!今回リリースされたベストアルバムに収録されている新曲もすごく良いと思うし、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本とたくさんツアーをするよ!」

(※このインタビューはDOLL No.261  2009年5月号に掲載されたものです。)

p.s. 現在HARD-ONSはニューアルバムのレコーディング中です!デモを送ってくれて何曲か聴きましたけどやっぱりかっけー!「THIS TERRIBLE PLACE」のように60’s的な良メロディーなポップソングに、全く落ち着くことを知らないスラッシュナンバーも健在です(2010/01/05現在)。

これまでリリースされた音源について勝手にレビューしています。こちら