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「10月30日(金)ディッキー・ハモンド(リチャード・エリック・ハモンド)が亡くなりました。30年以上に渡りパンクロックシーンに関わり、HDQ、LEATHERFACE、JONES、DOCTOR BISONを始めとしてサポートで携わったANGELIC UPSTARTS等のバンドを含めると数知れず、聴けばディッキーがギター弾いてるなとわかる印象的な彼独特で天才的で繊細なギターを奏でる人でした。彼のライフスタイルを知っている人であれば長生きはしないんじゃないかなあと思っていたかもしれないけれど、あまりにも突然過ぎる訃報となってしまった。LEATHERFACEで俺の人生を変え、二回目の来日の時にライブ前日に一緒に飲む機会をもらい出会った時は興奮してディッキーのギタープレーが本当に好きだということしか伝えることが来なかった。その後HDQのリイシューの時にインタビューをさせてもらったときは本当に興奮した。インタビューはいいよと言いつつも俺の質問にちゃんと回答してくれて(あっ半分以上の質問には無回答でした!けどイギリスの友人たち曰くディッキーがメールでインタビュー回答をしてくれた事自体奇跡だぜと言われたけど)、その後俺がイギリスに行った際に出会った時にはハグしてくれて、いつもサポートありがとうと呂律回ってなかったけど言ってくれたのは最高の思い出です。HDQが再始動してから、再びLEATHERFACEにも復帰して日本に来た時に会ったときはあまり飲んでなかったから、お酒減らしたの?って聞いたら今回のツアー中はフランキーから泥酔するなって警告されてるって小声で教えてくれたね(今思い返すと恐らくフランキーはディッキーの体を心配してたんじゃないかな)。その時にHDQで今度は来たいなって言ってくれたのに、その後日本に来ないのってゴーリーに言ったらディッキーがって。。。またもや俺を驚かせてくれたね。でも、その時からすにで体調悪くなり始めていたんだよね。もうディッキーがギターを弾く新しい音源を聴くことが出来ないのはとても残念。悲しいよ。HDQだって新作作るって言ってたじゃんか。けれど俺はこれからの人生もずっとあなたが残してくれたレコードを聴き続けるでしょう。そしてこれまでのように俺を勇気づけてくれるだろう。ありがとう。いつかまた会う時まで。」

2015/11/2 オニギリギリオ(WATERSLIDE RECORDS)

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「感覚が麻痺してるかのようだ。俺が初めてディッキーに会ったのは25年以上前のことで1990年8月ハッダーズフィールドでのことだった。当時俺は17歳、その時はまさにヒーローに会うような気分だった。HDQのアルバム「Sinking」は当時世界中で最も好きなアルバムで、当時俺の周りでアメリカのバンドばっかり聴いていて世界を知ってます的な奴らに俺は、HDQは完全にそういったバンドよりも上をいっていると言い続けていた。ディッキーのバンドに賭ける人生は完全に伝染性を帯びていた。アルバム「Soulfinder」が1990年の秋にリリースされ、俺は自分のファンジン全てのページを使ってそのアルバムがいかに素晴らしいかを書いた。翌年の7月にバンドがツアーに出た時には、俺は彼らのライブを見るためにリンカーン州の地元からバスに乗り64キロのバス旅行に出かけた。携帯電話が世に出る遥か前、俺はテスト前日ってことで両親は俺をわざわざ迎えに来てくれたんだけど、その夜、唯一バンドを家に泊められる人間が俺だったからそのまま彼らを実家に招待をしたんだ。2ヶ月後、俺はちゃんとテストに合格して人生初のスピード違反切符を手に入れた。その時って駐車しているバンの後ろからスピードガン片手にぬおっと出てきた警察官を思わず引きそうになったんだけどね。その時俺は「Sinking」のカセットを爆音で聴いていたからってことは警察官には言えなかった。もちろんそのカセットはフランス盤だったぜ。その時点ですでにHDQの次のアルバムはBOSS TUNEAGEからリリースさせてくれるって決まったたんだ。けど、バンドが解散するって発表した時には内蔵をえぐり取られるような気持ちになったよ。彼らは最後のライブとなるフランスのフェスに俺も誘ってくれたんだけど、その週から俺は大学に通い始めてしまっていたからフランスに行くことは出来なかった。その大学生時代、LEATHERFACEがレスターにやってくるときは全部見に行っていた。で、あのレディング・フェスの後にデッキーは俺のアパートに一人でやってきて泊まっていった。ディッキはー缶のサイダーを持ってきてて、氷いれないで冷たいので飲みたかったようで冷蔵庫の冷凍室のスペースを開けるために、冷凍室を塞いでいた霜をノミで必死に剥がそうと挑戦してた。もちろん冷蔵庫自体をぶっ壊したよ。そんで室内をフロンまみれにしてくれたね。俺の彼女が帰ってきた時にそれを説明するのにえらい大変な思いをしたんだった。その部屋でディッキーはLEATHERFACEを抜けてABSのバズとレブとDOCTOR BISONを結成するんだって教えてくれた。それから数年後俺はロンドンで仕事して住んでいる間に、Ace Recordsがハードコア・パンクバンドのリイシューをしたいんだって俺に接触をしてきた(この経験が後に俺がBoss Tuneageでレトロシリーズっていうリイシューをやるきっかけになった)。その話を振られた瞬間、俺の頭にはHDQが浮かび、唯一CD化されていない「You Suck」が閃いた。この出来事があり再びディッキーとやりとりが始まって、ディッキーはゴーリーと再びFatty Jonesを始めることを知り、Fatty JonesはシンプルにJonesと変名しリリースすることになった。今日においてもそのアルバム「Gravity Blues」はBoss Tuneageの25年のリリースの中でも大好きな作品で、今年25周年を迎えるにあたってリイシューをすることを希望した。その後、ディッキーはSTOKOEを始めアルバムをリリースした時にはイギリスと日本の流通をやって、ドイツは俺の友達のRookie Recordsのジャーゲンが手助けをした。それ以来やりとりは続いていてその結果2008年にHDQの全アルバムのリイシューを開始した。その時にディッキーは本人すらすっかり忘れていた録音済みの未発表曲を見つけることになったんだな、そしてディッキーがHDQを再始動させるって決断した時には俺はすぐにそのリリースのチャンスに飛び乗った。それもあり、DOCTOR BISONのリイシューもやらせてもらえたんだ。ディッキー・ハモンドのギターとソングライティング能力がBoss Tuneageをレーベルとして存続させてくれのは当然だろう。彼は6弦の天才であり、リリースできて本当に誇りに思うことの出来る心に訴えかけてくる名曲を作り上げた。面白くて、魅力的で、人生と音楽と喜びに本当に熱心な人間だった。会うときはいつでも「著作権料は?」って冗談を言っていたよ。ハモンド先輩、あなたはパンク・ロック界の貴族でした。あなたがいなくなることはどんなに寂しいことなのか。俺の思いはゴーリー、ディーン、ミックや他のあなたの友達、それからあなたの家族と同じ気持ちです。ディッキーはデッキーでしかない。こんな日が来てしまうなんて。俺がもう二度と彼に会うことが出来ないなんて実感がないんだ。最後にディッキーと電話で話したとき最後に彼が俺に言ったのは「Love You」だったんだ。俺もディッキーのことが大好きだ。」

2015/11/1 Aston Stephens(Boss Tuneage)

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interview with Dickie Hammond (H.D.Q., LEATHERFACE, DOCTOR BISON, FATTY JONES, JONES, STOKOE, ANGELIC UPSTARTS)
http://watersliderecords.com/onigiri-works/dickie-hammond/




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